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  • 執筆者の写真: NOBUSE NOBUYO
    NOBUSE NOBUYO
  • 2024年3月23日

「芸術」の傘の下は癒される


年内に、どこかのタイミングで展示をやりたいと思っている。一体なぜ展示をやりたいのか、考えの整理としてちょっとここに書いてみたい。


まず大前提として、私が展示を観るのが好きだ。だから自分でもやってみたい。これが一番の理由だろう。

どんなにわけのわからないものでも、グロテスクなものでも、不快感をもよおすものでも、「展示」という名で開かれたあの空間ではそれが何でか許される。その解放感たるや。


むしろそれに積極的な価値を見出すことはインテリの証拠であり、ちょっとしたステータスとして社会の中で「使える」。


それが芸術という権威の力だと思う。私たちはその傘の下で守られたまま、普段抑圧されている人間存在に潜む後ろ暗さや不条理への欲求を、思う存分味わうことを社会的に許される。その感覚に私は癒され、安心する。私はこのままで生きていていいんだと思わせてくれる。

もちろんこれは展示に限らず文学やエンタメなどあらゆる表現について同じことが言えるけれど、展示はそれが空間に展開されるという性質上、より社会的承認をダイレクトに感じられる気がする。


ここで「別に社会的に許されなくたって自分は自分でしょ」という意見はいらない。自分で自分を許す感覚と、社会的に許されているという感覚は別物の柱で、それぞれ異なる場所から人という存在を支えていると思うからだ。


ここで気をつけなければならないのは、「わけのわからないもの、グロテスクなもの、不快感をもよおすもの」だけが芸術ではないということだ。そういうものは一見「説明しやすい」ので芸術、特に現代アートを語る際に強調されがちだ。加えて理解のハードルが高い(=レベルが高い)ように見えるため、「現代アートかっこよさヒエラルキー」の中で上位になりがちだ。そもそもそういうものが現代アートだと思われているような時期さえあったように思う。私がこじらせ過ぎなのかもしれないが、少なくともそう感じてきたし、流されてもきた。


それはその他の作品だけでなく、「わけのわからないもの、グロテスクなもの、不快感をもよおすもの」への細やかな理解さえ妨げるものだと思う。ただ厄介なことに、そういった社会的な目線さえ作品の中に内包したり、そもそも呑み込まれて言説そのものになってしまった機能不全のアートもあったりして、状況は複雑怪奇だ。でもそういう目に見えないロジックの闘いみたいなものが、バチバチと火花のように散っている様子を肌で感じることができるのも、アートの楽しさなのかもしれない。


偉そうに長々書いてしまって、自分で自分の首を絞めているようにしか思えないが、私が展示をするならば、「目立たないアウトサイダー的感性」を、まずは拾い上げたいと思っている。



やさしさと想像力


それは、一言で言ってしまえば「やさしさ」だと思う。すべてのものに敬意を持って接すること。些細な、役に立たないと言われるものへ眼差しを向けること。その人にとっての光を大切にすること。その心のあり方は、見えないものを見ようとする想像の力とよく似ているのではないかと思う。


社会に一歩踏み入れば、そういう感性を保ったまま生きることがどれだけ難しいかがわかる。むしろあってはならないものとして、否定され、抑圧されてしまいがちだ。赦すことが、許されない。戦えば戦うほど評価され、見捨てることは自分の身を守ることだと黙認される。そうしていつしかわるものになってしまった自分を、わるものだと認めたくなくて人は誰かを傷つける。


やさしくて、何が悪いのか。否定をするなら、そのままで生きられない世界の方を否定した方がいい。それさえできない人だって、悪くない。


ここまで書いておいてなんだけど、私は別に創作においていい人でいたいわけじゃない。むしろ逆で、そういう人間的なもの全てから自由になって違う世界を見たいと思っている。でもそういった姿勢は、「こちら側」でのやさしさを大きくさせることもあるのかもしれないと最近思うようになった。


「こちら側」で何の役にも立たないことであったとしても、普段考えもしないことを考えたり、突拍子もない展開に驚いたり、奇想天外な絵を見たり、違った視点で物事を捉えるそのでんぐり返るような「頭の感覚と使い方」は残ると思う。それはやさしさの視点でもあるかもしれない。ちょっとそんなことを考えたのだ。


抽象的すぎて「で、結局どんな展示をしたいの?」という感じかもしれないが、要はひねくれたり、下手にかっこつけたりせずに、シンプルに自分の好きなように空想したことを見てもらうだけでいいんだと気がついたのだ。「目立たないアウトサイダー的感性を拾い上げたい」と先にかっこよく書いたが、その感性とはつまり「生の想像力のこと」であって、本来アウトサイダーでもなんでもない。ただ刺激が求められがちな社会の中で、その性質によっては見えにくくなりがちだというだけ。


要するに、ただ純粋なエネルギーのある展示をしたいんだな私は、と思った。何かの皮をかぶっていない、現地直送新鮮フレッシュな想像力を形にしたい。もちろん、それが一番難しいのだけれども。






























  • 執筆者の写真: NOBUSE NOBUYO
    NOBUSE NOBUYO
  • 2024年3月22日

昨夜は久しぶりに夜更かしをしてしまった。何をしていたかと言えば、このホームページを作っていた。今年は作家活動に打ち込む年と決めているので、営業の顔を作るべく一念発起したのだ。


一旦スイッチが入ると止められなくなり、逆にその好機を逃すといつまで経ってもやる気が起こらないとわかっているので、勢いに任せ気付いたら夜中の3時半になっていた。もうそのまま徹夜してしまえば良い気もしたが、風邪を引いたりすると嫌なので寝ることにした。


私は基本的には日付が変わる前に眠るので、こういうことはけっこう珍しい。私の早寝は世間からはよく「えらい!」とか「自己管理ができている」と好評価をいただけることが多いのだが、そんな褒められるようなものでもない。ただただ本当に、遅い時間になると眠れなくなるのだ。私はいわゆる「脳のエンジンが暴走しやすい(ハイ状態が長く続く)」タイプで、午前0時を過ぎるとフルスロットルモードになりやすい。


これは、ただ単に眠れない状態とはちょっと違うのである。不安があるとか、嫌なことを思い出して眠れないこともよくあるが、「脳のエンジン暴走」による不眠は完全に神経の問題なので、分けて捉えることにしている。これは一旦起きると数日継続することが多く、それで元気なら別に問題ないのだが、運が悪いことに私は身体が丈夫でないのですぐ体調を崩す。そんな訳で、「早く寝る」ことは私という心身を乗りこなすために必須の生活習慣なのである。


読書や映画鑑賞、人との会話、メール、SNS、あらゆるものが脳に興奮をもたらす作用になる可能性があるので、本当はもっとやりたいのに読めない・見れないことも多く、厄介な体質だ。特に映画鑑賞と読書はリスキーで、苦しい気持ちになるものに触れるとほぼ100%で知恵熱が出る。昔はそれを認めたくなくて果敢にチャレンジを繰り返していたが、今はもう諦めた。外で働いていた時は、体調を崩さないように色々と断念してきたが、最近家で仕事をするようになってからは「まあ最悪熱が出ても働けるし」と気持ちが大らかになれている気がする。


でも、悪いことばかりでもない。頭がフルスロットル状態で布団に入ると確かに眠れはしないのだが、いつもよりじっくりと自分の状態を観察できてそれが結構楽しいのだ。


今回は、昨夜(正確には今日)寝入る際に見えた光景について記述していきたい。眠りに入る寸前の意識の状態を観察するのは好きなので、これからもちょいちょい紹介していけたらと思う。



フルスロットル状態で布団に入り目を瞑ると、脳内で言葉や論理の形をとらない電気信号が大量に行き交っているのが感じられる。とんでもなく早口の何者かが数人、頭脳空間のあちこちでわめき合っているようだ。うるさいな、と思いつつ頭が膨らんでいく感覚が楽しい。火花や流れ星のような光の明滅が瞼の奥の広がりを教えてくれる。そういうとき私の意識は目元あたりにあるのだが、それが不思議でたまらない。でも目がここになかったら、私はあの電気信号を叫ぶ誰かと私の区別が付かなくなるのだろうとも思う。私を縛るものは、私という意識そのものなのだ。


右向き状態から仰向けに寝返った時、目の前が急に明るくなった。細かい繊維のようなものの向こうから光が差していて、頭まで被った毛布を通して部屋の明かりが見えているのだろうと思った。でも私は瞼を瞑ったままだし、部屋の明かりも消したはずなので、そんなはずはないのだった。そういうとき、私は嬉しくなる。目を閉じたままじっとその光景に目を凝らす。繊維の網目の向こうから差してくる光は複雑な形をしていて、何故だか肉眼では一生見ることもないであろう銀河の果てのことを思った。



こんな感じの網目みたいな繊維が視界を覆っていた。けっこう明るい光が向こう側から差していた。

草間彌生の「無限の網」はこれの強烈なやつだったのかな。



大島弓子の短編漫画「ジギタリス」では、こういった現象についてこれ以上ないほどの表現を見つけることができる。ー「眠れない時無理に目を閉じているとどこからともなくわいて出て消滅する不定形の発光体」「その1番でかい1番明るい星雲」に「ジギタリス」と名付けたー少年が登場するのだ。私はこれを読んだ時、こんな天才がいるものなのかと思った。やはり同じく衝撃を受けた人がいるようで、2021年に写真家・細倉真弓の企画による展覧会「ジギタリス あるいは1人称のカメラ」がTakuro Someya Contemporary Artにて開催されている。


さて、昨夜私が見た星雲は少々気持ちの悪い形をしていた。毛ガニというべきか、ムカデというべきか。ゲジゲジした足をいっぱいに生やした二枚貝、というのが一番しっくりくるかもしれない。そんなものが私の天空の真上に陣取っていた。その時私はまだ全然起きていて夢を見るような状態でもなかったので、余計に面白かった。まるで3D立体視がバッチリ視えたときのような鮮明さで、ゲジゲジの細部までハッキリと見えたのだ。その時間がどのくらいの間続いたのかはわからないが、そろそろ眺め飽きてきたなという頃合いに二枚貝星雲はすうっと闇に消えていった。


そのあとは、あまりよく覚えていない。1000から1ずつ減らしながら数字を数えたり、自分の皮膚に意識を集中してみたり、フワフワの大型犬と一緒に寝ている妄想をしてみたり、色んなことを試しながらなんとか少しだけ眠れたような気がする。




私の真上にいた二枚貝星雲。せっかく視界の状態がいい感じなのに、なんでこんなゲジゲジ?



ちょっと軽くレポートするつもりが、思いのほか長くなってしまった。自分の意識のことを書くことは楽しい。先日あったブックイベント「岐阜駅 本の市」でエッセイ人気を目の当たりにし、私も書いてみたいと思って日記風エッセイを書き始めてみたものの全然上手くいかず少し落ち込んでいたけれど、自分じゃない人になろうとしていたから駄目だったんだとこれを書いていて気がついた。


人はそれぞれ気になる部分が違う。日常生活のさりげない幸せに意識が向く人もいれば、自分や誰かの感情のことを考えることが好きな人もいる。それがそのままエッセイや日記の視点となって、だからこそ面白いに違いない。エッセイが人気であるということは、素敵なことだと思った。みんな色んな視点でこの世界を体験したいと思っているのだ。


私はたぶん、自分の意識の状態や脳裏に映ったものを観察して、それを細かく説明することに何よりも気持ちの盛り上がりを感じる。それが私の生き方の癖で、誰かが聞いたらびっくりするようなこともあるかもしれない。自分のことはわかるけど、それがどう捉えられるかはわからない。これが私の目、私の手。書くことはそのまま私をぎりぎりじなじな世界に刻みつけていくことなんだと思った。





















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