昨日は午後からずっと歩き通しで、身体中の水分が全部入れ替わったんじゃ無いかと思うくらい汗をかいた。そのせいでからだがほてってしまったのか、疲れてるはずなのに夜なかなか寝つけなかった。外に出ていた日の終わりには身体中に陽が染みてビカビカ光るのだ。
電気を消し布団に潜り込むと瞼の裏でその日起こったことや日頃気にかけていること、ふと目に入ってきた光景などがコラージュのように点滅しては過ぎ去っていく。いきなりに楽しい気持ちがわいてきてよし思い切り笑ってやろうとでんぐり返ししてみたり、悲しくて悲しくて仕方がないことの答えを何気なく開いたタンスの奥に見つけたり、不意に聞こえてきた「そこで開いている花の種はこれからの私が運んでいくんだ」という声にまったく全てが解決したりする。それは眠りと意識の狭間では真実であるに違いないのだが、結局のところこの世のどこにも痕跡を残していない。つまり、起こっていないのである。
そんな風にして、この世のはめをことごとく外した百鬼夜行のデコボコパレードが毎晩私の頭を踏み抜いていく。それは私にとってこの世で一番面白い出し物で、何のためにと言われればそれを見るためにたぶん生きている。もちろんできる限り覚えていたいけど、彼らの存在意義にかかわるからたぶん全部は残していってくれない。だから少しずつ集めてどうにか再現できないかと思っている。
結局どこへ行って、何をして、誰といてもその歓びを超えられないだろうということが、幼い日の私が放った矢が長い弧を描いて胸に刺さったかのように今、手触りのあるものとして理解できる。目を開いていても、閉じていても、ようやく私は生まれた時から暗い洞窟の中に隠してきた夢たちと一緒にいまここにいることができているような気持ちでいる。
最近私は文章を書こうとする度に「明るすぎる」と感じるようになった。はじめそれは照明のことだと思ったのだけど、どれだけ暗い中で書こうとしてもやっぱり明るさが消えないのだった。頭の中が明るすぎるのだ。闇の中で目を凝らしていたいのにどうして光がなければ何も見えないんだろうか。
私の頭の中に社会通念や色んな人の意見があって、その煩さが「明るさ」として感じられているのだろうかと予想してきたけれど、そういうことだけでもないのかもしれない。暗闇にいる必要がなくなったものたちを、これまでそうしてきたからと再び暗い場所に引き戻そうとしているとも考えられないか。百鬼夜行のデコボコパレードとそこから得たインスピレーションを、そんなありふれた二項対立に簡単に象徴してしまうことは容易いが、ひょっとしたらこの「明るさ」を「暗い」と書き換えることだってできるのではないかという閃きに今ちょっと楽しくなってきている。
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