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執筆者の写真NOBUSE NOBUYO

やさしさと想像力

更新日:3月26日

「芸術」の傘の下は癒される


年内に、どこかのタイミングで展示をやりたいと思っている。一体なぜ展示をやりたいのか、考えの整理としてちょっとここに書いてみたい。


まず大前提として、私が展示を観るのが好きだ。だから自分でもやってみたい。これが一番の理由だろう。

どんなにわけのわからないものでも、グロテスクなものでも、不快感をもよおすものでも、「展示」という名で開かれたあの空間ではそれが何でか許される。その解放感たるや。


むしろそれに積極的な価値を見出すことはインテリの証拠であり、ちょっとしたステータスとして社会の中で「使える」。


それが芸術という権威の力だと思う。私たちはその傘の下で守られたまま、普段抑圧されている人間存在に潜む後ろ暗さや不条理への欲求を、思う存分味わうことを社会的に許される。その感覚に私は癒され、安心する。私はこのままで生きていていいんだと思わせてくれる。

もちろんこれは展示に限らず文学やエンタメなどあらゆる表現について同じことが言えるけれど、展示はそれが空間に展開されるという性質上、より社会的承認をダイレクトに感じられる気がする。


ここで「別に社会的に許されなくたって自分は自分でしょ」という意見はいらない。自分で自分を許す感覚と、社会的に許されているという感覚は別物の柱で、それぞれ異なる場所から人という存在を支えていると思うからだ。


ここで気をつけなければならないのは、「わけのわからないもの、グロテスクなもの、不快感をもよおすもの」だけが芸術ではないということだ。そういうものは一見「説明しやすい」ので芸術、特に現代アートを語る際に強調されがちだ。加えて理解のハードルが高い(=レベルが高い)ように見えるため、「現代アートかっこよさヒエラルキー」の中で上位になりがちだ。そもそもそういうものが現代アートだと思われているような時期さえあったように思う。私がこじらせ過ぎなのかもしれないが、少なくともそう感じてきたし、流されてもきた。


それはその他の作品だけでなく、「わけのわからないもの、グロテスクなもの、不快感をもよおすもの」への細やかな理解さえ妨げるものだと思う。ただ厄介なことに、そういった社会的な目線さえ作品の中に内包したり、そもそも呑み込まれて言説そのものになってしまった機能不全のアートもあったりして、状況は複雑怪奇だ。でもそういう目に見えないロジックの闘いみたいなものが、バチバチと火花のように散っている様子を肌で感じることができるのも、アートの楽しさなのかもしれない。


偉そうに長々書いてしまって、自分で自分の首を絞めているようにしか思えないが、私が展示をするならば、「目立たないアウトサイダー的感性」を、まずは拾い上げたいと思っている。



やさしさと想像力


それは、一言で言ってしまえば「やさしさ」だと思う。すべてのものに敬意を持って接すること。些細な、役に立たないと言われるものへ眼差しを向けること。その人にとっての光を大切にすること。その心のあり方は、見えないものを見ようとする想像の力とよく似ているのではないかと思う。


社会に一歩踏み入れば、そういう感性を保ったまま生きることがどれだけ難しいかがわかる。むしろあってはならないものとして、否定され、抑圧されてしまいがちだ。赦すことが、許されない。戦えば戦うほど評価され、見捨てることは自分の身を守ることだと黙認される。そうしていつしかわるものになってしまった自分を、わるものだと認めたくなくて人は誰かを傷つける。


やさしくて、何が悪いのか。否定をするなら、そのままで生きられない世界の方を否定した方がいい。それさえできない人だって、悪くない。


ここまで書いておいてなんだけど、私は別に創作においていい人でいたいわけじゃない。むしろ逆で、そういう人間的なもの全てから自由になって違う世界を見たいと思っている。でもそういった姿勢は、「こちら側」でのやさしさを大きくさせることもあるのかもしれないと最近思うようになった。


「こちら側」で何の役にも立たないことであったとしても、普段考えもしないことを考えたり、突拍子もない展開に驚いたり、奇想天外な絵を見たり、違った視点で物事を捉えるそのでんぐり返るような「頭の感覚と使い方」は残ると思う。それはやさしさの視点でもあるかもしれない。ちょっとそんなことを考えたのだ。


抽象的すぎて「で、結局どんな展示をしたいの?」という感じかもしれないが、要はひねくれたり、下手にかっこつけたりせずに、シンプルに自分の好きなように空想したことを見てもらうだけでいいんだと気がついたのだ。「目立たないアウトサイダー的感性を拾い上げたい」と先にかっこよく書いたが、その感性とはつまり「生の想像力のこと」であって、本来アウトサイダーでもなんでもない。ただ刺激が求められがちな社会の中で、その性質によっては見えにくくなりがちだというだけ。


要するに、ただ純粋なエネルギーのある展示をしたいんだな私は、と思った。何かの皮をかぶっていない、現地直送新鮮フレッシュな想像力を形にしたい。もちろん、それが一番難しいのだけれども。






























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