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自己の感覚の他たよりとするものなく何かを目指すことは当たり前のようで、こと現代においては最も難しいことの一つかもしれません。日泰寺を後にし、私はただ東山給水塔の見える方角へと歩いて行きました。高いものを目指して歩くだけ。その素朴さがこんなにもからだに力を与えてくれるのだとは知らなかった。普段重く泥のような四肢がはねる、はねる。目や耳、皮膚、鼻、舌、全部使っていいのかあ、と思うと意味もなく楽しくなりました。


東山地区は山と付くくらいなので勾配が激しくうねるように突然上がりだす坂道など多くあり、まだ3月とはいえ額に汗がにじみます。だんだんと屋根や窓など塔の細部が視界に入ってきて確かに近づいている実感があるのになかなかこれという場所が開けてこない。「ここを越えればすぐそこ」というフェンスが沢山あるのだけれど、どう見ても私有地なので諦めて迂回する。そうして回り道を繰り返すうちひとつの事実に突き当たりました。


「東山給水塔は、一般公開されていない」


がーん。何という失態。気づいてからしばらくショックで思考停止しました。ちょっと調べればすぐわかったのだろうけど、まっさらな状態で行くのが今日の目標ということもあり全く盲点でした。給水塔のそびえる小さな丘に面した大道路沿いには、市がつくった情報看板があってそこにちゃんと書いてありました。後で調べたら、少し前までは一般公開もしていたようですが現在は工事中で公開予定はないとのこと。

私と同じように困ったような顔をして看板コーナーをうろうろしているご婦人がいて、よっぽど話しかけようかと思いましたがやめました。


わかります。まさか入れないなんて思わなかったですよね、うんうん。でもこれでじゅうぶん。地図もスマホも見ずに汗を流しながら下ったり上がったりして何だか探検みたいでしたね。いやあ本当に、結果より過程を楽しむとはこのことですよ。


心の中で話し相手になってもらいました。


フェンス越しに呆然と眺めた切ない光景


帰り際、ほてった心身をクールダウンするため覚王山駅すぐ側のスタバに入りました。余談ですがこういう大手チェーンの店が結構好きです。ひっそりとしたお洒落なカフェよりスタバ、スタバよりは純喫茶。変な風にひねくれてしまいました。さておきテラス席があったのでそこへ。店内はかなり混雑していましたが、花粉症の時期のためかテラス席はヌシ的に居をどーんと構える面々ばかりの落ち着いた雰囲気。その中の一つに私も陣取らせていただき、今日一日撮ったばかりの写真を選定したりなどして小一時間ほど過ごしました。


この日のことをスマホにみっちり書き込みもしたのですが、鼻息が聞こえるような熱気を帯びすぎていたので不採用。1ヶ月ほど経って気持ち新たにしたためた次第です。


ちなみにこの日立ち寄った場所は、日泰寺→東山給水塔→スタバで、これらは徒歩10分圏内ほどの距離感なのですが、なんと5時間くらい過ごしてました。美術館へ行った時もそのくらいなので、集中力が保つ時間が大体それくらいなのでしょう。


メインであるはずの東山給水塔の描写が少なくて申し訳ない。でも本当に、正直覚えていないのです。そこまでの道のりと、入れない塔の前でうろうろしている自分という事実が面白くてそっちに一生懸命でした。こういうとき、カメラがあってよかったなあと思う。上の空のわたしの目の前に、あの日も塔は花曇りの空に向かって生えていた。美しい塔だなあと、今しみじみと眺めます。


また来るね


その昔、働き始めてすぐの頃に一度覚王山祭りに出店したことがあります。いわゆる手作り市で、ハンドメイド作家やさまざまなアーティスト、食べ物系などの出店が並びます。私はそのころ熱心に作っていた消しゴムはんこを数十点。中世のキリスト教絵画のモチーフを模写してはんこにすると、私のデッサンの下手さも相まって不思議なほどとぼけた愛らしいお顔になることに気がつき、天使や聖人の方々をはんこにさせていただいていました。懐かしいなあ。


マザッチョの「聖母子と天使」をモデルにしたはんこ


さてそんな覚王山の参道、久々に歩きます。えいこく屋やチーズのお店、覚王山アパート、昔から変わらずの面々に加えて、なんだかおいしそうなものが増えたなあという印象。今日はおにぎりにしてよかった。限りなく悩んでしまい、限りなく食べ続けてしまいそう。


日泰寺の本堂左側にのっそりと生えている東山給水塔を見つけたときはうれしかった。山門の前でしばし呆然とし、今日は来てよかったんだな、と思えました。そのまま吸い込まれるようにおばちゃま集団にまじって門をくぐり、カメラで気が向くままに撮ったり、考えたり。本堂の見事なこと。大きい建物は好きです。特に大きなお寺の門から本堂までを行くときの精神的な広がり、感じられる空間が実際の何倍も広がっていくようなスケール感に圧倒されます。本堂手前の屋根付香炉の煙に心もお寺の気分に燻られて、うっとりと暗い本堂へ。中にはたくさんの礼服を着た人たちが椅子に座っていて、ちょうど毎日の読経の時間だったらしく、僧侶たちがぞろぞろ入ってくるところでした。何やら良いところに居合わせたなあと小さな運に心がふっと軽くなる。


屋根付香炉から本堂を臨む



しばし読経に耳を傾けたあと、ここらでお昼にすることに。境内に入ってきた時から五重塔前の青いベンチに目をつけていたのです。外で食べるって何でこんなに気持ちいいんだろう。内臓が動いてじんわり温かくなり、行き交う人々の会話や衣擦れ、鳥や車や日の光たちの平和な音に気が抜けて風が気持ちいいのです。私が生きているというより時間が生きていてその中にただ私もいるんだな、そんな感じがしました。



今日のおべんとう。ゆかり入りの酢飯に、醤油をちょっと垂らしたおにぎり。

この後お腹が空きすぎて、リュックに入れてる非常食のカロリーメイトを食べました。



今日のお昼スポット。カメヤマローソクのベンチ、最近行った奈良の長谷寺にもあったので調べてみたら

三十年ほど前から全国の神社仏閣に無償提供を行っているみたいですね。ありがたや。



さあ気がつけば、もうけっこういい時間です。次回、いざ給水塔へ。














何にもしたくないので、東山給水塔へ行ってきました。何にもすることがない日に家にいるととにかく目がつかれます。スマホや読書、ネット、しなくてもいいメールチェック。ついついそんなことばかり。


じゃあ出かけようかと思いつくのは、図書館、美術館、映画館、本屋。あそびの幅の少なさに我ながら哀しくなります。もう何でもいいから、この小世界の中から脱出したい。そう思って、最初に思いついたところへ行くことに決めました。


それが東山給水塔。20代のころ本来の役目を終えただそこで佇んでいるものたちが醸し出すノスタルジアにやや憧れていた時代があり、何か地元でもそういう欲が満たせる地はないものかと探していた頃合いにその存在を知りました。当時はとてもアクセスが悪く徒歩で行けそうもないと何故か思っていたのですが、いざ行こうと決めて調べてみると覚王山駅から徒歩15分ほど。思わず拍子抜けしてしまいます。


昼ごはんはおにぎりを持っていくことにしました。よく晴れているし、最近これにちょっとはまっているのです。お店で食べるのは確かに外出の大きな楽しみでもありますが、それに気を取られて本来の気分を損なう時があることに気づきました。おにぎりをきゅきゅっと握ってラップに包み、バナナと一緒に大きめハンカチで包みます。麦茶を入れた水筒と一緒にリュックに詰めれば準備万端。遠足みたいにわくわくします。去年買って押し入れに入れっぱなしのちょっといいカメラも持っていくことにしました。適度におもちゃを持たせてあげるのも、一人歩きを楽しむコツです。


覚王山までの道のりはあまり覚えていませんが、車内の様子を眺めたりしながらぼーっと楽しんでいた気がします。後から振り返るとぼーっとしていたように思うのですが、たぶんその時はこどものようにわくわくしてちょっと心臓の鼓動が気になっていたように思います。いつもそうです。


さて覚王山に到着すると、ひとまず日泰寺へ向います。その日は平日でしたがよく人が歩いていて楽しい気分になりました。商店街に人が歩いていないのは寂しいし、なんとなく緊張するので苦手です。


さて今日はここまで。続きは次回、日泰寺へ行きます。

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